皆さんこんにちは。何年もK2と共に歩まれているベテランの親御さんたちを前に、まだ2年目なんだけどなと思ったんですけど、まだ歴史の浅い親の話も何かのお役に立てればなと思いまして、これからお話ししたいと思います。
毎月、息子の生活レポートがK2のスタッフから送られてきます。
あーもう、うちの子だな。私の子だなって見るたんびにもう恥ずかしくてたまらなくなるんですよね。昔の若い時の自分を見るような。もう本当に子どもは自分の鏡だなって恥ずかしい気持ちになります。
理屈っぽいし、めんどくさいし、自虐的だし、まるっきりもう私にそっくりなんですよね。なので、ほんと一生懸命に対応してくださっているスタッフの方にはもう頭が下がる思いです。ほんとにいつもありがとうございます。
親が先に死んでも周りの人から愛してもらえれば生きられる――
話をするにあたって、はじめにうちの息子が赤ちゃんだった頃のことを思い返しました。私は赤ちゃんと親の会に参加して活動していたことがあります。
母乳育児の会。その会の中にわがままで他の赤ちゃんのことをいじめたり、何かと問題を起こしている赤ちゃんがいたんです。赤ちゃんというか、3歳ぐらいの子ですか。
その時に他の親御さんが「おたくの息子だったらさ、いつだって預かるんだけど、ああいう子だと嫌だよね」って言われたんですよ。
その時に、自分の子どもが親からしか愛されないのはすごく寂しいことだし、辛いことなんだなって思ったんですよ。
ですから何があっても、親が先に死んでも、子どもが周りの人から愛してもらえれば生きていくことができるな。そういう子になってくれたらいいなと思っていました。
一年間高校を休んで、毎日ひたすら薪割り――
私と夫は両親の考え方に反発して、自分の考えや生き方を貫く、そんな生き方をしてきたんですね。
ですから子どもには自由に個性的に生きる環境を与えてきたつもりでした。
自然体験や農業体験で、息子はわずか2歳で料理したり、稲刈りしたりなど、器用にならされるようなことをしていました。
長男が4歳の時に、福島県の山奥に移住して、田舎暮らしを始めました。山奥で自然に囲まれて暮らしていた時には、周囲には個性的な大人がたくさんいて、いろんな生き方があるんだよと見せていたつもりでした。
保育園から小学校、中学校。うちの息子は女の子たちには紳士的で優しい子で、ちょっと人気がありました。その頃、クラスには知的障害のある子もいて、その子をサポートしながら演奏会をやって、一生懸命背中を叩いてリズムをとってあげていた、そんな姿を思い出します。
ところが彼は、高校の進学でつまずきました。田舎は自然豊かでいいんですけれども、やっぱり教育の面では色々限界があります。今後のことを考えて、鎌倉にいる祖父母、夫の実家から東京の高校へ進学することになったんですけど、最初からもう、全然登校できなくなりました。祖父母が高齢で、実は祖母が認知症になってたんです。
それ以外にも、親から離れて田舎から都会に出た子どものストレスは、ものすごく大変なものだったんじゃないかなって思います。心療内科に行ったら薬をもらったんですけど、もうそれ飲んで寝てばかりの毎日でした。休学を勧められたので、1年間学校を休んで、福島県の田舎に戻って暮らしていました。
その時期、息子にはひたすら薪割りをしてもらいました。
うちは薪ストーブを使って暖房してたんですけど、毎年1年間4トンぐらいの薪を使います。
ひたすら薪割りして、腕が太くなってしっかりたくましくなって、笑顔も出るようになった頃に、千葉の浦安にいる、彼にとっては叔母の家から東京の高校に通うようになりました。
やっぱりここでも宿題ができないとか、片付けられないとか、ゲームばっかりやってるとか、いろんな苦情がありました。でも、なんとかかんとか高校を卒業することができました。

相談できない、頼れない生きづらさ――
ちょうど彼が高校3年生の終わりの頃に東日本大震災がありました。
うちはちょうど原発から20キロぐらいのところでしたので、家族みんなで鎌倉に避難してきました。このタイミングで、家族も長男と一緒になって暮らすことができたんですね。
実はこの時期に長男は家出もしたことがあります。私は、震災があって、避難があって、親の介護があって。生活に追われていて、正直、子どもどこじゃなかったところがあります。なんとか大学には入ったんですけれども、結局は中退することになってしまいました。
長男は今でも変わらないところがあります。人に相談できない、グループ行動ができない。だから、人に頼れない。レポートを出せないっていうのは、理系の大学ではもう致命的です。課題をこなせないし、単位が取れません。
高校生の時、1回引きこもったあたりの頃で、カウンセリングに通ったこともありますが、カウンセリングのその時間は楽しく会話してるんですけど、それが何かこう良いことになったことはなく。何かのきっかけになることもなくて、そのままダラダラしてた感じでした。
大学を中退して、じゃ、借りていた奨学金はどうなるのかなとか、これからどうなるんだろうかなと、私としてもすごく心配でした。これまでアルバイトしたことも全然ありませんでしたが、なんだか一生懸命探して、数ヶ月間の割と高額なアルバイトを見つけてきました。
パソコンの初期設定をする仕事で、これでわわーっと数ヶ月でお金稼いだんですよね。
そのお金でスーツを買ったり、靴を買ったり、カバンを買ったり、最初の奨学金の返済とか。続いてそういうお金を貯めるために、派遣会社で働くようになりました。

やっぱりお金を稼いでると、少し本人の自信になったようで、ゆとりができてきました。
弟の大学の学費も立て替えてあげるなんてこともして、兄ちゃんとして、すごく生き生きしてた時があります。
うちは、長男と次男と二人兄弟ですけども、ものすごく仲がいいんですね。
弟が出産する時に立ち会って、「ほら、お兄ちゃんだよ。こっち出てきておいで」と声掛けして、それで生まれたものだから、もう「僕が呼んだから弟が生まれたんだ」ってすごく可愛がっていて、弟のことをほんとにもう、ものすごく可愛がるんですよね。
弟もお兄さんのことをすごく尊敬してます。そんな兄弟です。
他人からしか学べないことを学んでほしい――
派遣会社に勤務して数年ぐらい経った時に、高校の頃の友人から長男に連絡があって。
実は高校の時に月面探査ロボットのプロジェクトに参加したことがあり、その時のリーダーがロケット設計や製作の会社にいて。どうだい君、来ないかって誘われたらしいんですよ。その時はすごく嬉しがって、どうかな、北海道行ったらいいかな。いいじゃない、いいじゃない、なんて言ってたんですけども、結局ダメだったんですよね。
チームでの活動ができないし、大学を中退しているので、スキルが足りなかったみたいなんです。
そこからひきこもりが始まりました。その前は派遣社員でプログラムの修正や管理をしていたようですが、正規社員じゃありませんから、立場上自分の意見を反映することはできず。それがすごく悔しかったらしいです。いくら仕事をしても自分のキャリア形成にならないし、プライドも傷つけられるしで、仕事に不満が募っていて。せっかく一瞬夢を見られたのに、結局は転職できなかった。それで力が抜けてしまったようで。

どうかな、どうかな、と様子を見ているうちに2年が経っちゃいました。田舎にいたままなら薪割りとか、やることがいろいろあったかもしれないんですけど、都会では限界があります。親ができることなんて大したことがない、私たち親以外の大人から、他人からじゃないと学べないことをもっともっと学んでほしいのに、どうしたらいいのかなと思いつつ、2年が経っていったような状態です。
お父さんもお母さんも僕のこと捨てるんでしょ――
K2との出会いは、実は私の友人に日本、中国、台湾、韓国の4カ国の国際交流をしてる人がいまして。その人と一緒に私と夫は上海や韓国のテグに行って、演奏や国際交流のワークショップをやっていたんですよ。その中で、この間日韓フォーラムにも来られていたK2コリアのスタッフをしていた方とも出会って。彼から、僕はK2ってところで働いてるんだよ、日韓フォーラムというイベントに来ない、面白いよ?と誘われ、「行く行く」とこの会場に来ていたんです。
その後、息子がひきこもった時に、「そうだ、K2があったじゃないか」と思い出して、すぐに相談してみたんです。
大船にある湘南・横浜若者サポートステーションに相談に行きました。本人にも「ほら、ここ行ってごらんよ」って言ったんですけど、行くわけないですよね。そんな1人でひょいひょいって行くような子だったら、ひきこもるわけないんですよ。
最初本人はzoomで相談をしました。私たちは根岸の説明会に参加しては、と誘われたので、恐る恐る息子に「行かない?」K2は楽しいし、雰囲気が明るいし、怖くないところだからどう、なんて言ったら、「行くよ」って来てくれたんですよ。
やっぱり息子も自分でどっかに焦りがあったんじゃないかと思います。このままじゃいけない、そういうギリギリのとこだったのかなと思うんです。
説明会の後、「入寮したらどうなの」とその夜、家族3人食卓で話をしました。そしたら長男が泣きながら、いきなりいっぱい話し出したんです。
「お父さんもお母さんも僕のこと捨てるんでしょ、スタッフの人がそう言ってたんだから」と言って、いっぱい喋るんですよ。
思えば、ひきこもってからは、家族でちゃんと話をするってことなかったんですよね。一方的に親から「どうすんの、働かないの?どうすんのよ?」って。長男は下を向いてただ黙りこくって、じーっとしてるだけで。
親子で話をすることがなく、いつかお互いに目を合わせないよう、目をそらしながら生きてきた感じがします。
「そうじゃなくてさ、捨てるってわけじゃなくてさ」とか言って、親子ですごく真剣になって、ひきこもるとは、これからどうやっていくのかをいっぱい話をした感じがします。
それでわあわあ泣いて、わあわあ喋って、そしたらK2に行くっていきなり出したんですよね。
思いっきり話をして、モニャモニャした気持ちじゃなく、言葉に出して初めて、そこで何か吹っ切れたような感じがあったみたいで、自分でK2に電話をして、寮に入るって言ったんですよね。支度も自分でどんどん進めていました。
寮に入ってからは、スタッフの方からの連絡にも「楽しそうです、こんな笑顔も見せてくれてますよ」と、どんどん明るくなっていく様子が伝わってきました。7月に入寮したんですけど、12月のフェスタのミュージカルでは、コミカルな演技なんかもして。
「ほら、お宅の息子、こんなこともできんだぜ」なんて金森さんに言われて、すごく嬉しかったことがあります。
でも、ここからがまたひと悶着あり。K2とつながる親御さんだったら皆さん知ってますよね。波があるし、こうね、上がり下がりもあるわけですよね。いろんな波があります。
実はうちの長男は、1年ぐらいで辞めるつもりだったんです。だけど、そんな半年とか1年ぐらいで、そんなに人間がひょいひょいって変わるわけじゃないわけです。金森さんにテコ入れしていただいたこともあります。スタッフの方にも、あの手この手でのいろんなアプローチをしていただいて。
ほんとにきわどい崖っぷちを、ふらふら、ふらふらしながら歩いてるのが、ちょうど今2年目の息子の状態です。息子はスタッフ見習いとして事務所で修行させていただいてます。
親は親、子どもは子ども――
家族以外の存在の物理的な介入がなかったら、息子は今でも2階の自分の部屋で寝たり起きたりして、コソコソ起きてきてはラーメン食べて、夜中にゲームして奇声を上げて、ブツブツ、ブツブツ文句言いながら過ごしていたんじゃないかなって思います。
親ができることなんてほんとにたかが知れてる、だから他人の力って大きいなって思ってます。
今、K2の寮で生活をしていて以来、1年ほど家に帰ってきたことはありません。直接話をしたこともないです。親は親、子どもは子ども。今、人生を割り切って暮らすことができています。
私もこれからどういうふうに生きていったらいいのか、毎日毎日が初めてです。年をとっていくなんてほんと初めてのことですから。
息子もこれから1人でこの世で生きていかなきゃいけないことになってます。

息子が赤ちゃんのときに、親以外の人に愛されるようになってほしいなと思ったんです。そして今も、親以外の他人と一緒に生きるとか、信頼できる人とつながりを持って生きるっていう、やっぱり同じようなテーマで彼も今過ごしているということなんだろうなって思ってます。
これからもさまざまな方とつながって生きていくことを学んでほしいと、今思っています。ありがとうございました。