生まれた時から人の情けと助けが必要な子
次男がK2にお世話になって丸1年が過ぎました。
ひとえにみなさま方、金森さん、スタッフおひとりおひとりの、言葉に表すことのできない真実と愛を持って支援してくださっている、ご苦労とご配慮の賜物と感謝しております。
私はひきこもりの息子を2人抱え、にっちもさっちもいかない状況にあって、次男のことはK2にお任せできて、どんなにか肩の荷が軽くなっているか、計り知れません。
さて、次男は2000年に我が家の次男として、長男からは14歳、3番目の次女とは10歳離れて生まれました。母が40を過ぎてからの子ですから、本当に元気に生まれるのだろうかと誰もが訝しがるところですが、元気に生まれました。その時、少し泣きが悪かったので、逆さにされて背中をぺちぺち叩かれました。
生まれた時から人の情けと助けが必要な子だったんですね。
ところで、人は生まれてすぐ初乳という感染症から守られる免疫たっぷりのお乳を飲める特権が与えられているのですが、残念なことにその時はわからなかったのですが、母である私が乳がんに侵されていたために血液から母乳にならず、欠乳という状態であったことにより、この恵みの初乳を飲むことができなかったのです。
そのため、幼少期は感染症との戦いでした。
さて、そしてちょうど1歳になる2か月前に父親が白血病と判明。1年間の入院となりました。
発達の面では、首の座りは通常3ヶ月で座るところ、やや遅く4ヶ月で座りました。
お座り、ハイハイはやや遅め、1人で歩くのは1歳4カ月と遅めでした。2歳になる前から恐竜好きで、恐竜図鑑に乗っている恐竜は全部覚えていました。でも、ごっこ遊びをしていないのが気がかりでした。
そうこうするうちに父親が天に召されました。父親から愛された記憶がないのは不憫でなりません。
その1ヶ月後、母が乳がんと判明し、手術のため入院。その間、子ども好きなのに子どもがいない叔父夫婦の元に2カ月半預けられました。その時は楽しかったと本人は記憶しています。
その後、父の日といえば、父親の写真の顔を描いていました。
小4の3月には東日本大震災に
4、5歳の頃は虫好きで、虫好き仲間と虫博士になる夢を持つほどでした。
その当時、気になることがありました。保育所から帰宅途中、スーパーに立ち寄ると、いつの間にかどこかへ、自分の興味のある場所へと勝手に移動してしまうのです。母は懸命に探し回り、疲労困憊するのが習慣になっていました。

小学生の時は学習面で心配がありながら、母は仕事で心の余裕がなく、次男に教え助けることができなかったのが悔やまれます。
小4の3月には東日本大震災に見舞われ、外で元気に遊ぶこともできず、放射能の不安や生活の制限が続き、余震が続く中、落ち着いて生活できていませんでした。
小5のときにはほとんど身長が伸びず、受診しても治療はなく、受診や放射能のストレスにもかかわらず、愛情不足症候群という名前がついています。
小6では問題のある教師が担任で、学級崩壊の中、学びたくても学べない状態でした。
幼少時、遅くても10歳までには適切な支援と指導が受けられれば、でこぼこな特性があっても生きていく術を見出せるのですが、当時、発達支援においては「仙台と栃木県の谷間にある福島県」と言われるほど遅れをとっていました。
かなり手厚いと思われていた医療機関にかかりたくても、新患は年1回30分の時間内に予約を取りつけなければ受診できない、まるでくじ引きのような状況でした。
切望して2回エントリーしましたが、見事外れてしまいました。
中学に入ってからは学習面で開くばかりか、次男を理解してくれる教師は見つからず、辛い日々を過ごす中1の3学期から完全な不登校が始まってしまいました。
それでも、中学3年生のときに市の学習支援センターの支援を受けることができ、週1回の訪問を受けるうちに、少しずつほかの人と会話することができるようになりました。
3学期には担任の先生にも訪問していただき、進路についてのアドバイスが受けられました。この時やっと次男を理解しようとする先生方に出会えて幸いでした。
人間的に優れた先生や指導者に出会えるか出会えないかでは雲泥の差がありますね。
自分のようなものは生きていてはいけないんだ
先生の先生方の支援の甲斐があり、通信制の高校でしたが入学、卒業することができました。
その後、高校の紹介先の事業所に就職することができましたが、喜びもつかのま、そこは次男にとっては茨の道。
見て覚える方式の指導は合わず、直属の上司からいじめに遭い、うつ病となりひきこもるようになりました。自己肯定感は地に落ち、自分のようなものは生きていてはいけないんだと心に思い、自殺も考えていたようです。
自分自身を受け入れられず、人との接触を絶ち、何の楽しみもないという生活は、次男にとって本当に辛いものであったと思います。
そんな暗闇の中に、一筋の光が見え始めてきました。
福島県の中に、生きづらさ、でこぼこを理解し、導き、支援してくださる人々、場所が見つかったのです。不思議なことに、2023年10月、K2の東北キャラバンが福島県の白河市にやってくるというチラシを、次男を知るキリスト教会の牧師からいただきました。
6~7年前にK2について詳しく書いてある本を読んで感銘を受けていた私にとっては願ってもないことでした。
次男本人にとっては、そこまで行って話を聞くのは未知との遭遇であり、あまり気乗りしないのは当然です。けれども「会場に行って説明を聞いてみる」と、一歩前に踏み出しました。
当日、参加はしたものの、傍から見ても気乗りしない様子が見て取れました。
ところがK2の金森さんの話になったところで、聞く姿勢を整え、心が動いたなと感じました。そして帰る間際に、金森さんと直接話す機会もあり、それでさらに心が押し出された様子でした。その後は、さらに勇気をもって横浜へ赴き、事業所説明会に出席することができました。
生きづらさに押しつぶされるのではなく、自分の特性を生かし生きてゆく
今はK2の共同生活に入り、さまざまなことを通して学び、生かされています。
次男の暗かった顔には笑顔が増え、明るくなりました。自分と同じような辛さ、悲しさを、そしてひきこもりを経験した方々に出会い、共感し、共感される仲間ができたこと。
また、でこぼこを持つ生きづらさのひとつひとつを解き明かしていただき、それに対して、どう対処するのかを学ばせていただく中で、生きづらさに押しつぶされるのではなく、自分の特性を生かし生きてゆく術を今探求していると思います。
K2に出会えて本当に良かった。親として本当にありがたいことです。
次男は生まれてこの方、多くの悲しいこと、辛いことを通ってきました。
けれど、四面楚歌の状況にあっても天は開いてます。
私自身はクリスチャンで、どんな困難や苦難があっても、父なる神様は試練とともに脱出の道を備えてくださいます。そう考えています。
「神は実にその独り子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が一人一人して滅びることなく永遠の命を持つためである」と聖書に書いてありますが、愛を持って導き、助けてくださるお方がおられるとは、なんと幸いなことでしょう。
拙い話に耳を傾けてくださってありがとうございました。
ご清聴ありがとうございました。