怠惰で不思議な赤ちゃん。

私の息子の、幼少期からのことをお話しします。
どういう子育てをしてきたか皆さんの参考になればと思います。
生まれは平成5年、今年で31歳になりました。
4歳上に姉、2歳下に弟、3人兄弟の真ん中で長男でございます。
体重は3,000グラム標準。ところが、生後半年ごろから体重がなかなか増えず、身長に対して痩せている赤ちゃんでした。先に生まれつき体格が良かった長女とは真逆でしたが、特に病気に弱いわけではありません。
言葉は普通に話し、歩き始めも1歳ぐらいでした。
ただ、疲れやすいのか筋肉が付きづらいのか、あまり歩きたがらない子供でした。ミニカーなどで遊ぶ時もなるべく寝たまま、横になって伸ばした手で動かしたり、怠惰な状態で遊ぶところがあって、不思議な赤ちゃんだと思っておりました。
しかしながら総じて聞き分けの良い、頭の良く回る印象で、保育園に通院した時も、保育士からは愛情を受けて育っていて、能力的にも優れている、ただ体が細いのだけが心配だとの評価でした。
通知表は常に「よくできました」。
実際、褒められることがあっても怒られることはありませんでした。
学習面も特に教えることもなかったのですが、いつの間にか平仮名を覚えてしまいました。
また真面目な性格なのか、お遊戯会などの役割の前には常にプレッシャーより目をパチパチパチパチさせるチックらしき症状も出ていました。
小学校友達ともよく遊び、兄弟仲もよく、学習面では宿題などはすぐにできてしまうので、随分できる子だなと感じておりましたが、ゆとり教育の真っただ中ということもあったので、息子にとっては努力せずともできてしまう内容だったのかもしれません。
通知表は常に「よくできました」で「がんばりましょう」はありませんでした。
ただ冬服から夏服、夏服から冬服、衣替えをするのを嫌がって大変でした。同じものを好み、洗濯することができないので、ズボンなど同じものを3本も揃えておりました。友人からはあいつは何本同じズボンを持っているのかと知られていたようです。
今では変化に対応することが苦手なのだと理解しています。

親としては、体さえ大きく育てばあとは心配ないだろうという考えから、家の近くに区がやっている乗馬クラブへ通ったり、スイミングスクールに通ったりもしました。
運動が苦手な息子にとっては辛かっただろうと思います。
親としては健康づくりのためにと渋る本人をなんとかなだめて、低学年のうちは休み休みながらも通っていました。ピアノにも姉と一緒に通い、そのおかげで音感が良くなりました。姉がおりますので、その後を追っていたという感じでありました。
その後、最初は私立中学受験コースの塾に入りましたが。学習のレベルがあまりにも高く、全くついていけないので、ほどなく学習コースへ移動しました。特にハイレベルな学校を望んでいるわけではないので、あまりの差にびっくりしてしまい、結局親としても普通の生活でいいのだ、と思いました。
そして高学年になり、学校の教室内が少しずつ騒がしい環境になり、落ち着いて勉強できる感じではなくなってきて、公立の中学へ進むのをためらっている時期もあり、他の区域の学校へ行くことも考えたのですが、友達が行けば行ったのでしょうが、自分から行くとは言い出せませんでした。
学級崩壊でも楽しかった。
中学校に入学したての時期は緊張していたものの、小学時代の友達がそのままいるので、安心して通学していました。しかし心配していた通り、間もなく学級崩壊となりました。騒ぎを起こすために学校へ来るような方たちがどんどん、どんどん増えていったのです。
小学生の時に心配していた通り、勉強もいよいよ遅れがちになり、3年生の時にはオール3程度になっていました。友達との話の流れで塾へも行ったのですが、勉強は自宅での学習はほとんどしていません。自分で勉強することやり方がわからないらしかったです。小学校時代から努力をせずともできてしまうことの弊害かもしれません。ただ、学級崩壊の中にいて、問題を起こさないグループには先生たちが全く干渉してこないので、自由にしていた様子で楽しかったと言っていました。
夏休み明けからいよいよ通学ができなくなり…
高校進学ですが、地元の公立高校は評判は芳しくなく、環境的に良いと思えるような公立高校は勉強のレベルが高かったので、私立高校が良いだろうと考え、片道1時間近くかかる都心の大学付属の男子校へ入学しました。親としての考え方でした。

息子は初めての電車通学、新しい環境がかなり辛い様子でした。中学校では喉を鳴らすチックなどを気にせず出していられたのに、高校の静かな教室では気にすればするほど出てしまい、我慢するのが大変な様子でした。
静かな教室、慣れない友達、通学時のラッシュへの人混み拒否感により、朝からトイレにこもって遅刻寸前になることも度々でした。
1学期を終え、機会があって駅近のマンションに引っ越したことで、少しでも負担が減ればと思っておりました。1年は次第に休みがちになっていましたが、それでもなんとか2年に進級できました。2年はクラス替えがあり、息子のいる文系クラスにかなり男っぽい生徒が集まってしまい、さらに馴染めなかった様子でした。
1学期は休みながらもなんとか終えたのですが、夏休み明けからいよいよ通学ができなくなりました。
あの時、親としては本当に慌てました。高卒の資格だけは必要だと考えていましたので、調べに調べて単位制高校への転校という選択に行き着きました。高校の担任の先生はもう少し様子を見てみればと言ってくれましたが、辛い様子を見かねて転校となりました。 通信制高校では、通学はほぼなくなり、時々の通学でよくなりました。電車は下り方向で空いています。普段は家で自習という形で、息子にとって楽になり、これで高卒までなんとか過ごせるだろうと考えました。
2泊3日の校外学習は、進級に必須の行事でしたが、朝遅刻して団体バスに乗ることができず、両親が自家用車で片道2時間近くかけて現場まで送り届けたりもしました。交友関係は高校の同級生とは全くなく、時々中学時代の友達と会う程度でした。
朝から準備しても、無理、と椅子から立ち上がれず。
そして高校卒業となり、高校卒業後の進路を決めるとき、大学への進学も考えましたが、手に職がつくような資格を取ることを家族で相談し、美容専門学校へ入学しました。
親が美容師なので、何かとアドバイスできるだろうと考えました。
しかし入学後3日間入学しただけで、体がキツイ、つらいと間もなく通学しなくなりました。それまでかなり楽な生活をしてきしてきてしまったせいであります。
本人は行かなければならないと考えているのに、体が言うことを聞かない様子でした。
きちんと私物に名前を書き込んで、行く準備をしているのに全く行けない。行かなくなるとさらに行けなくなる。悪循環です。
3ヶ月先に説得され、久しぶりに通学しようと前日の夜8時には寝て意を決して通学しようとしましたが、朝から準備してたのに結局無理だと椅子から立ち上がれず断念しました。本人なりに努力をしていましたが、半年後に退学。
どこにも所属していないのは初めてのこと。本人は肩書きのない無職は嫌だと言っていましたが、こればかりはどうしようもありません。
みるみる体力が落ち、筋肉がなくなっていき、もともと細い体がさらに…

その後、何をしていいかわからない日々が続き、時々親が働く美容院へ来て掃除などをしていました。夜には外に連れ出してウォーキングなどをして体をほぐしたりしていましたが、いよいよひきこもりも長くなり、みるみる体力が落ち、筋肉がなくなっていき、もともと細い体がさら細くなってきました。食事の時体が傾いて椅子に座るのが苦手になり、歩く時も傾いているようでした。
また、ひきこもるようになってから、家族が誰も入れないほどの熱い風呂に入っていました。感覚がおかしくなっていたようです。手足のこわばりも見えました。ボキボキ鳴らしたり、変な方向へ曲げたり、自傷行為の部類でしょうか。親の目を盗んで酒も飲んでいたようです。リラックスしたかったのでしょうか。
昼夜逆転の生活になり、夜起きてはオンラインゲームに興じていました。対戦者がいるようで、大声で奇声を発するので、家族からは嫌がられていました。
ストレスを発散していたのでしょうか。都度話し合いもしましたが、親子とも解決には至らず。私が親から、親自身が受けていたパワハラからの影響もあって、父親の私が恫喝するまでのことはしませんでした。
まるで腰の曲がったおじいさんのように
今から思うと、親としてよかれと思って楽な方向へ導いてしまい、結局子どもの成長を止めてしまっていたようなものです。
息子は成長ができないまま、これではいけないと本人なりに苦しんではいたと思います。不安をどう表現していいかわからなかったのでしょう。
親として一番ショックだったのは、たまに手伝いに美容院に来た時、シャッターを上げてもらっている姿が、まるで腰の曲がったおじいさんのようにひょこひょこした動作をしており、見ていて悲しくなりました。筋肉がまるでなくなってしまっていました。このままどんどん、どんどん衰えていくのではないかと恐怖もありました。
時に、友人の誘いから郵便局の年賀状仕分けのアルバイトについた時もありましたが、予想通り1週間の予定が、疲れがひどくたった1日で行けなくなりました。
子どもが家にこもっているところへ、仕事を終えて疲れた身体で帰る時、親としては暗澹たる気持ちになりました。幼少期から弟を可愛がっていた姉は何かとアドバイスしていたようですが、どうにもなりませんでした。
姉は結局、大学卒業を機に就職先の寮へ入ることを選び、家を出ました。弟は一時期、ひきこもりの姉に兄に影響を受けそうになりましたが、結局家を出て就職、自活することになりました。 本人も20歳の成人式は、友人に誘われて出席しました。私たち親も、息子が友人の様子を見て、何か触発されればありがたいと考えておりました。
「普通であってほしい、高望みはしない」が息子にはプレッシャーになっていた。

「何かしなければならない」と、インターネットでひきこもりの悩みに対応している施設や機関などを探しました。厚労省の就労機関などへ行ったりもしました。数カ所に相談の電話もしましたが、今までの経緯を話すたびに気持ちが落ち込んでしまいます。そんな中、見つけたのがK2のホームページです。その頃には私は心が疲れてしまっていたので、今回は妻に電話をお願いしました。
最初に対応して頂いたスタッフの方の「それはお困りでしょう」という温かい声に救われました。一言一言に何か感じるものがありました。すぐに親子面接の予約をして、息子にはK2のことを伝えました。
数日後、息子と親子人で根岸へ向かいました。寒い雪の日です。専門相談員と看護師のお二方に対応していただき、初めてアスペルガー症候群の傾向があることを知らされました。
子どもの頃から、息子は他の子どもたちとはどこか違うと感じていましたが、ここで初めて知らされ、それがある意味衝撃でした。
子育てのポリシーは「普通であってほしい、高望みはしない」でしたが、それ自体が息子にはプレッシャーになっていたのです。私たち親は彼の特性を理解していませんでした。周囲からは「能力があるのにもったいない。やればできるのに」と常々に言われていたので、そんな問題があるとは考えられなかったのです。
父である私の今までの対応を一刀両断にされたのも、この時が初めてでした。
その後息子本人もなんとかしなければとの気持ちがあってK2に入寮してお世話になることになり、スタッフと共に暮らす宿舎での共同生活が始まりました。
安住の場は家庭ではない。自分の場所は自分で作る

本人はK2に行けば、成長して解決できるものと簡単に考えていたようです。
そこも息子らしいのですが、家での楽な暮らしから規則正しい生活が始まり、生活が一変したことで、すぐに音を上げ3日で寮から逃げ出しました。
電車賃ぐらいは持っていたようでした。すぐにK2から連絡が入り、帰ってきても絶対に家に入れないようにと強く指示されました。
その後2時間ほど家の外で待ち伏せしていると、両手にお菓子やお酒をいっぱい買い込んだ買い物袋をぶら下げた息子がやってきました。家に帰ってのんびりしようと考えていたようです。予め打合せていた指示通り、私たち両親は家に息子を入れません。全力で抵抗するのを30分以上説得し、なんとか車に乗せ、横浜に向かいました。当の本人はその途中、疲れたのか居眠りをしていました。
寮についたのは夜中でしたが、スタッフが起きて待っていてくれました。その夜は素直に戻りました。しかしその後1か月過ぎた頃に、再び寮から脱け出しました。今度は入寮している仲間と共に逃げ出し、一晩どこかで過ごしていたようです。いつか逃げ出そうと仲間で相談していたようでした。
電話にも出ません。寮から脱け出した報せを受け、両親ともに翌日に根岸へ向かいました。
その日の昼過ぎになり、ようやく電話がつながり、息子と根岸の駅前で落ち合いました。仲間とは別れ一人でした。「さあ、K2へ戻り話し合おう」と説得し、なんとかK2へ向かいました。その後面接をして、いったん帰るという選択となりました。
そこで改めてこれからの対策方法を教えられました。家に居場所はない。寝るのはダイニングの片隅。パソコンは使えず、居心地が悪い状況に仕立てました。「安住の場は家庭ではない。自分の場所は自分で作る」その第一歩でした。
家にいる間、これまでのこと、これからのことを自分なり考えていたのでしょう。五日ほど過ぎた頃、寮のスタッフと電話で話をして、息子は自らK2に戻る決心をしたようです。
その夜、自分一人で電車で根岸へ向かいました。
自分の行動について、自分から「ごめんなさい」と謝り、自ら行動を起こしたことに、心底ほっとしました。それは息子が初めて自分自身で選んだ行動でした。
その後、困難さから逃げる傾向への対処として、場面転換のために海外へ行くことを提案されました。それを聞いた息子は、3か月で帰ってくるつもりでいましたが、親としては3ヶ月では無理だとしても3年ぐらいで帰れるのかなと考えていました。

旅立つ前には、「絶対3ヶ月で帰ってくれるように頼んでおいてね」と息子に言われました。「もちろんだよ」と、旅立つ時には成田空港で見送りました。
それがなんと11年も海外にいることになりました。
オーストラリア、韓国、ニュージーランド各国を移動し、K2の拠点で活動する中でワーキングホリデー、短大への入学と卒業、運転免許を取得し、様々な経験をして今現在に至ります。
十一年間で二度だけの再会…

11年の間、2度ほど短期で日本に帰って来る度に、1時間ほど根岸のお好み焼きころんぶすで対面し、食事しながら話をしました。11年間で二度だけの再会ですが、その度に成長が少しは見られたので、不安もあり安堵もありの両方の気持ちでした。
その後コロナ禍の影響もあり、本当に幸運なことに、ニュージーランドの永住権を取ることになりました。そしてK2のスタッフにもなることもできました。
今はオーストラリアとニュージーランドを行き来して仕事をしています。今は私たちの家族は、親は親として、子どもたちも子どもたちでそれぞれの道を歩んでいる最中です。
それぞれの場所でそれぞれの道を歩むことに寂しさもあります。
経済的にも限界で、それまで住んでいたマンションも引っ越し、夫婦で28年間挑んでいた美容室の他に、セカンドビジネスとして週3回開店するカラオケバーも開きました。これが8年になります。息子が海外へ向かった時は元気だった祖父母もすでに他界し、14年間一緒だった飼い猫も昨年看取りました。自分たちも年を取り60歳を過ぎ、いよいよ夫婦のみの生活になりました。
僕たちも年を取ったので、生活も慌ただしくなってきております。
この機会をいただいて、当時の心境を改めて思い出してしまい、とても辛くなってしまいましたが、あの一番苦しい時にK2と出会えて、親子共にとても幸運でした。
代表並びにスタッフの皆様、ありがとうございます。
また、家族の会の皆様、同じ悩みを打ち明けられる場をいただきまして、他ではできない内容の相談をさせてさせていただき、本当に救われました。
まだまだ安心ではありませんが、今後ともK2のつながりを大切にと考えております。
――お母さん泣いてます。もう思い出してる。
今ね、お父さんがペラペラ喋ってるけど、もうほんとに、ほとんどお母さん。
ここにおれるのはほとんどお母さんのおかげなんですよ。(代表)











