この子は痛い目に遭わないとわからない子です
現在、息子は26歳。K2にお世話になり、3年5ヶ月が経ちました。
夫は転勤族で、生まれた時は宮城県で生活していました。妹がおり、年が1年2ヶ月しか離れていないため、2人は双子のように育ちました。夫は仕事がとにかく忙しく、子育ては母親の私が一気に引き受けていました。それでも兄弟でよく遊んでくれるので助かっていたと記憶しています。
3歳の時、転勤で静岡に引っ越しました。小学校に入ると文字がなかなか書けません。また、先生の指示が入らないため集団行動が取れない時があり、1年生の担任に「この子は痛い目に遭わないとわからない子です」と言われ、かなりショックを受けました。そこから私も奮起し、一緒に宿題や提出物、文字の練習を頑張りました。
次の転勤では北海道の名寄に引っ越しました。小学3年生では、担任の先生から「この子は黒板を書き写せない」と言われました。試しに支援の先生がいらしている時、耳元で黒板の文字を伝えると、なんとかノートに書けたとのこと。担任の先生と相談して診断がつき、支援を受けることができました。

その後、旭川、大分県と小学校を転校しながら継続して支援を受けました。そして6年生の時、中学生からは支援は必要ないと言われ、支援はなくなりました。
理学療法士を目指すべく大学に入り、一人暮らし
中学ではいじめのような嫌なことがあったようです。
当時あまり多くを語らず、「今の成績だとそいつらと一緒の学校になってしまうから進学校に行く」と言い、猛勉強が始まりました。ご飯も食べず集中しすぎることもあり心配しましたが、結果は担任もびっくりの合格となりました。
目的を果たした息子は、今度は勉強しなくなり、強い男になりたいとラグビー部に入り、膝の怪我で手術をし、修学旅行は松葉杖。その後の進路はどうするか。本当は目指したいものがあったようですが、現実的ではないからと言えなかったそうです。結局、リハビリでお世話になった経験から、理学療法士を目指すべく大学に入り、一人暮らしが始まりました。
途中、コロナ禍でリモートや実習に影響もあり、理学療法士への興味が薄れ、大学4年の10月に退学したいと言い出しましたが、何とか説得し卒業。国家試験も合格しました。
息子の口から出た言葉は「もう無理」
東京での就職が決まり、働き始めて8ヶ月が経った、忘れもしない12月1日、息子の職場から夫に連絡が入りました。コロナ陰性だから出勤して良いのに無断欠勤している。アパートに行ったが、電気はついているのに連絡が取れない。警察に連絡してよいかとのこと。夫は「親が行くので警察は待ってほしい」と頼み、夫婦で車でアパートに向かいました。その時夫は「あの子は死んでいるかもしれない、最悪の事態も考えていた方がいい」と言いました。
アパートに着き、鍵を開けると、そこは虫も湧いている、足の踏み場もない壮絶な部屋でした。パソコンや電気はつけっぱなし、本人は見当たらず、息子の携帯電話は相変わらず繋がらない。警察に電話をしようとしたその時、息子が帰ってきました。やせ細り、目がうつろで、私たちは言葉を失いました。そして、息子の口から出た言葉は「もう無理」でした。ボロボロのそんな姿を見るのは初めてでした。その夜は夫婦でその部屋に泊まり、息子と話し合い退職することを決めました。

退職した息子は、私たちが住んでいる横須賀の社宅に身を寄せました。本人が就業中に購入した大きなゲーム用パソコンを部屋に持ち込み、昼夜逆転の生活が始まりました。私は息子のご飯を準備し、仕事から帰宅すると食べていないご飯を捨てる状況。なぜか夕食だけは一緒に食べる。会話はほとんどありません。部屋にこもるとヘッドホンをつけてゲームをし、大声や独り言を言う。もはやドラマのようでした。最初は不憫に思っていましたが、だらしない息子にどうすべきなのか考えがまとまりません。
シドニーに行かせてください。
そうして1ヶ月が過ぎ、夫と話し合い大船の湘南・横浜若者サポートステーションに連絡を取りました。週に1、2回のプログラムには参加するものの、昼夜逆転の生活は変わりませんでした。数ヶ月が過ぎたところで、スタッフにK2の寮生活を勧められました。そして当然息子は拒否。「なんで今更集団生活をしなきゃならないんだ。働いて金を貯めて、1人暮らしをする」と言いました。
スタッフから前もって「キーパーソンは父親で、息子を説得する役目は父親がするように」と言われていたので、その通りにしました。
そこで初めて夫と息子が言い争う姿を目にしました。結果、話は決裂しましたが、なんとか当日に入寮できました。

そうして寮生活を送り、1年と半年が経ったころ、息子はマルチ商法に勧誘され、危ないところK2に救ってもらいました。国内にいてはまた勧誘される心配もあり、息子は携帯電話を解約し、シドニーに行くことにしました。
面談で夫が息子を説得すべく、行け行かない、行け行かないとまたも激しい言い争いをしました。結局説得できずお開きとなり、夫とどうしたものかと面談会場を出たところ、マルシェで金森代表と息子が何やら話しており、2人で肩を組んでやってきます。すると息子の口から「シドニーに行かせてください。よろしくお願いします」と。
あんなに決まらなかった話が、金森代表との数分の話で決まりました。「あー、これが俗に言う金森マジックなのかな」とびっくりしたのを覚えています。
あれから2年弱、シドニーとニュージーランドを行き来し、先週帰国しました。
今は笑って生活してほしい
以前の私は、子どものことは母親の私が担うべき仕事、夫は不在も多く仕事もかなり大変、単身赴任も6年頑張ってくれていたしと、息子のことはいつも事後報告でした。
しかしK2にお世話になり、Kママからかけられた「みんなで作戦を考えましょう」という言葉で、肩の荷が下りたような気持ちになりました。そして「キーパーソンは父親」と言われた時、内心反発していましたが、今振り返ると冷静に息子を見ているのは夫だと気づかされました。
これからまだまだ息子のことでK2の皆さんにご迷惑をおかけすると思います——と書いてますが、もうすでに先日泥酔したりと、ご迷惑をおかけしました。申し訳ございません(笑)
いつか息子が恩送りできることを願いますが、今は笑って生活してほしいと思っています。以上になります。ご清聴いただきありがとうございました。











