Bさん(仮名)。2024年現在、息子さんは現在は自立して、家からもK2の寮からも独立。
子どもの頃から衝動性が強く、学校や社会への適応の難しさに、本人もご家族も苦しむ日々。さまざまな葛藤を経て、共同生活で親子が良い距離感を取ることにより、親は元気に、本人は家から離れ理解ある環境を手に入れ、今の状態が実現。
ゴールキーパーなのに試合中に他のことをやっていて…
息子は現在30歳になります。
K2にお世話になったのは2012年からですので11年経過して、今12年目です。
石巻に住民票を移しまして、昨年2月から寮を出て独立、地元企業で就職して働きながら生活をしている状況です。
K2にお世話になる前の状況ときっかけは、かなり話がさかのぼりますが、本人が幼稚園の時に多動が見られまして。
例えば幼稚園の2階から上履きを投げたりいろんなことがあって。その時は他にもそういうお子さんもいたことで、少しやんちゃな子っていう認識で。
小学校に入ってから、その多動が非常に顕著になり、教室から出てってしまう。授業中他のことを一人でやる。友達に何かされると過剰反応してしまう。
ひとつよく覚えているエピソードは、サッカーの少年団に小学校から入ったんですけど、ゴールキーパーをやっているのに、試合中に他のことをやっていて、点を取られちゃうということがあって、これはちょっとどうなのかなと。親としても悩みました。
その後、学校の先生から呼び出しがあっ色々お話を伺い、先生のアドバイスで専門医の検査を一度受けてはどうか、と提案されました。確か小学校2年だったと思います。横浜市大病院で検査を受けたところ、ADHDの診断でした。注意欠陥性多動障害。
皆さんご存知かと思いますが発達障害ということで、具体的には医療的に服薬とカウンセリング、県の教育相談カウンセリング、この2本立てで対応していました。
特に服薬時は多動や衝動が非常に治まるので、薬を飲んだ時と飲んでな時のギャップが非常に大きくて。薬の効く時間が決まっているので、薬が切れると家の中や学校でトラブルが多発してしまいます。例えば家の中ですと基本的に我慢することは非常に難しく、食べたいものを食べてしまうとか、弟と何か取り合いになった時に手が出てしまう。少し大きくなってくるとお金を盗むこともありました。
学校では友達に何か言われた時に手を出し、怪我をさせてしまう。教室から出てってしまう。ひとつ覚えているのは、これは一人でやったわけじゃないんですけど、人の家の庭に侵入して、そこにペンキを塗りたくってしまって。猛烈に怒られました。
大きくなってからはバイト先の自転車を盗んで警察が家に来るとか、そういうこともありました。
周りの人たちとのギャップに怖さを感じたのかもしれない…
小学校では特異な行動を取るため、言葉によるいじめを受けていたことを後で知りました。そういうこともあり、小学校卒業後、中学は公立ではなく少人数制でケアの行き届いた学校に行かせました。そこで少し落ち着きが見られたこともあり、また成長するにつれて多動や衝動性が収まると聞いていたので、親としては県立、公立に行かせたらどうかなと思い、高校は公立に行かせました。しかしながら、やはりかなり厳しくて。
出席日数もギリギリ。しかしながら担任の先生が、特性を理解し相談に乗ってくれる先生で。色々ケアをしていただき、何とか高校を卒業しました。その後、自らの希望でインテリアの専門学校に入学しました。
我々も何か問題が起きたら対応していく中で、ベースとなる気持ちとしては、やっぱりどうしても子どもに対し負負い目のようなものがあって、基本甘やかしてしまっていたんじゃないのかなと思っています。
中学校、高校となるにつれ、小学校の頃の多動性から、もうちょっと複雑なトラブルというか、我々も対応がだんだんきつくなってくる状況になりました。
専門学校に行きはじめ、最初はちょっと張り切って行って、家で一生懸命徹夜で課題に取り組んでいたんですけども、徐々に学校に行けなくなってきました。通学中に気分が悪いって帰ってきてしまう。
以前、代表の金森さんに相談していた時、恐怖というか。周りの人たちと自分とのギャップに怖さを感じたのかもしれないと言われていたことを思い返します。
結局専門の前期は在学していましたが、後期から休学して、結局1年で退学をしました。
その後は少しアルバイトをしながら先も見えずに家におりまして、その間家の中ではわがままと言い争いで、どんどん状況は悪化していきました。
ここに来ることは嫌がらなかった。
そんな行き場のない日々、当時若者自立塾という事業が政府の政策で始まっていた頃にテレビで知りまして、インターネットでこういうものが近くにないかなと探したところ、磯子区にK2という団体があることが分かり、息子を連れて説明会を聞きに来ました。それが息子が19歳の時でした。
その時に専門相談員の方が、我々のなんというか、痛みっていうか、そういうものをまるで見てきたかのように話してくれたんです。今まで私の兄弟や親戚に息子の話を色々してきても、なかなか理解というか感覚的にわかってもらえない部分があったんですけど。
そういうことが、ここでチャレンジさせてみようと思ったきっかけです。
息子はここに来ることは嫌がりませんでした。その辺りははちょっとよくわからないんですけど、自分としてもなんとかしたかったのかな、というふうに思っています。
K2に入って初めは、石巻の短期プログラムに参加をしました。
19歳でしたし、私どもも初めて遠くに出すのは心配な気持ちがあって。K2のスタッフに共有せず、息子に言われるままに小遣いを送ったり、漫画を送ったりしていました。
K2からはチームとして対応してほしいと、何回も釘を刺されていたんですけど、スタッフと親で目線を合わせる、情報を共有することの重要性も、その時は全く理解できていなかったです。
気持ちがすっと楽になった記憶は今でも鮮明に残っています。
当の本人は行って2か月後に石巻で問題を起こして、根岸に戻ってきました。そのあと一年半は自宅から金沢区にある活動拠点カナカツに通い、その後就労移行支援事業所だったハタラボに通いました。
共同生活の提案も受けていたのですが、自宅から通う方が精神的に安定するのではないかと思い込んみ、自宅に戻しました。この時期、外での不安や思い通りにならないことが全て家族に向かいまして。通いのこの一年半が、いちばん大変な一年半でした。
大人に成長していましたし、だいぶ口が立つものですから、口論をするとこちらがもうとにかく極めて強いストレスを感じました。
ひとつあったのが、例えばK2の通いで知り合った女の子をK2のスタッフには黙って家に呼びたいという提案があって、「そんなの絶対ダメだよ」という話になって。
その時スタッフに共有した、息子のその時の話法をメモで残していたんですが…
1つ目は書いてあるのは問題のすり替え。「こうなったのはお前のせいだ」もしくは「その言い方が許せない」
2つ目は過去の蒸し返し。「あの時自分は悪くないのにお前たちに謝りに行かされた」かなり昔の話を蒸し返す。
3つ目は刃物による脅し。「これで俺を刺せ」と包丁を出す。
4つ目は情への訴え。「こんなに頑張ってるのになんでお前たちは認めないんだ」
5つ目は交換条件。「そこまでわかったんならK2に連絡しないと約束しろ」
こういうことを日々やられて、かなり我々も精神的に参っていました。
三人兄弟で弟が二人いるのですが、その弟たちも非常に辛い状況になり、このままじゃいけないと思いまして。金森さんに相談して、「離れて暮らす」「直接コミュニケーションを取らない」ということを提案されて決断しました。
実際に離れて暮らすようになって、ほんとにですね、なんていうかな、景色が変わったっていうか。気持ちがすっと楽になった記憶は今でも鮮明に残っています。
その後、韓国、シドニー、それからまた韓国というかたちで海外に行きました。
「これも折り込み済みだよ」と言われ…
初め韓国行きが決まった時にはK2を抜け出して、家に戻ってきたんですけども、スタッフの方から「絶対に家に入れないでください」という話があって。
その時はかなりプレッシャーを感じ、そんなことをして何か報復されたら困ると考えてしまったんですけど、近所までスタッフさんが来てくださり安心した記憶があります。息子はスタッフさんの説得の元、とうとう戻って行きました。
韓国でもすぐに順応できたのはよかったのですが、すぐに慣れが出て、気分の波とかサボりが出てきて。その後ちょっと言いにくいことなんですけど、売り上げを、屋台の売り上げの横領をしたことが発覚しまして。青ざめてその日の夜に、K2まで家内と2人で謝りに行きましたが、その時に金森さんご夫妻だったでしょうか、「これも折り込み済みだよ」と言われて。
「折り込み済みだよ」
この言葉で、K2への信頼が私としては非常に固まりました。
二度目の韓国。その後短期でシドニーに行きましたけど、すぐに韓国にまた行くことになりまして。
語学、韓国語に取り組み、かなり自信をつけて大学に行くことになった。それなのにその矢先にまたトラブルが起き、ふたたび石巻に行くことになり。
それが2016年の11月、その後2017年3月から石巻で仕事を始めさせていただき、住民票を移して免許を取って。その年の12月に根岸で毎年あるクリスマスフェスタで、3年ぶりに再会しました。
息子にとっての青春を送らせてくれた
再会した時いちばん感じたのは、かなり目が穏やかになって、変わっていたなと思ったのを覚えています。
石巻に行くことでどういう変化があったのかは、私もはっきりよくわからないです。でも、K2のコミュニティの中で守られていることに加え、石巻という土地の環境や、地域で温かく親身になってくれる人たちのおかげで、彼も少しずつ成長できたのかなと考えています。
終わりにというか最後なんですが、正直、今の息子の状況っていうのは全く想像してませんでした。
なんだろう、就職してほしいとか、自立してほしいみたいなことはそんなに考えられていなかったです。
なんとなく穏やかであればいいなっていうふうに思ってました。
ただ、今そういう状況になって、やっぱり常に不安はあります。また元に戻っちゃうんじゃないかとか、。K2とはやっぱりこの後も繋がっていきたいなというのは正直な気持ちです。
この11年間振り返ってみると、とにかく初めはわからないことだらけで。わからないから、いろんな場所に参加していろんな話を聞きました。代表の方から、親御さんが少し無理をしてくださいっていう話もありましたので、少し無理をしました。大したことないですけど、少しは頑張ってきたつもりです。
K2にすごく感謝してることが2つあって。
ひとつは、今まで申し上げたように、息子は何度も問題を起こしました。犯罪に近いこともありつつ見捨てずに受け入れてくれたことです。
もうひとつは、その守られた環境の中で、言い方がちょっと適当かどうかわからないんですけど、息子にとっての青春を送らせてくれたこと。友達もたくさんできました。今までほんと友達がいなかったんですね。いろんな経験もさせてもらって、青春を送らせてくれたこと、この2つに非常に感謝してます。
最後に。K2でいちばん今まで本当に共感できた言葉で、愛を持って離れて暮らすっていうのがあるんですけど。その言葉にいちばん共感を持っています。今でもやっぱり実感として、肝に命じるっていうか。そういう感じで過ごしてきました。以上です。