「お母さんが代弁してきたんですね」と言われてハッと

息子は現在36歳、K2で暮らして13年半になります。
入寮したのは23歳になる前でした。小さい頃はニコニコしていて、言葉が遅くて、発語が少ない子どもでした。家族にも言いたいことを口で伝えてくることがほとんどありませんでしたが、私には阿吽の呼吸で何を言っているのかわかりました。

息子が入寮したちょうど13年前ぐらいから、発達障害という言葉が巷で言われ始め、K2から勧められてメンタルクリニックを受診しました。その時に息子が言葉で説明できないから私が代わりに説明すると、医師から「お母さんが代弁してきたんですね」って言われてハッとしました。

子どもの頃、一緒に遊んでいる子はいましたけど、友達と言える子は今思うといませんでした。家でも話をしないので、息子から学校や友だちなどの情報を得ることは全くありませんでした。
中学生の時に、いつも2人で笑いながら遊んだり、一緒に行動している同級の子に息子のことを聞くと、自分のことを話すことはないと言っていました。いつもなにか笑っていたのは、彼なりの演技だったのかもと思っています。

自分から相談に行けなかった

中学の時から成績は悪かったのですが、高校進学は運良く公立の工業高校に入学できました。彼からは全く情報が取れないので、学校の情報を得ようと思い、PTAの役員を3年間やって学校に通いました。

その学校はいじめに厳しく目を光らせてる印象があり、実際にもいじめはなかったようでが、就職する時がもう大変で、担任の先生に何回も「どうですか?」と聞いても、「本人に進路指導の部屋に行くように言っています」との返事が返って来るだけ。

今思えば自分から相談に行けなかったようです。結局、新聞のチラシで求人の募集をお父さんが見つけて学校に持っていき、学校の推薦を頂いて就職活動をしました。

人と話すことが苦手なので、なるべく人と関わらない仕事を希望して、自宅から自転車で25分ぐらいの工業団地にあるプラスチック包装を作る会社で、日勤1週間、夜勤1週間交代の仕事を始めました。
その仕事は2年続いて安心していたのですが、3年目に新入社員が入り、息子が先輩になったことで、仕事の出来を後輩と比べられてしまい居づらくなったのか、朝起きれずに遅刻や無断欠勤をするようになり、その後退職しました。

退職後、口ではまた仕事を探して働くと言っていましたけれど、結局昼夜逆転のゲーム三昧になってしまいました。

そこでお父さんが、家から出せば働く意欲が出るのではないかと、アパートを借りて一人住まいをさせました。お金は働いていた時の預金がありましたし、家でいろいろ言われるよりは楽になると思ったのでしょう。本人も喜んでアパート住まいをしました。


仕事は派遣に登録をして、たまに来る夜間の高速道路の交通整理の仕事をしていました。その仕事はいつもあるわけではありませんし、危険な仕事でしたが、本人は喋らなくていいので気が楽だったようです。

ひとり暮らしをしてから、時間が過ぎるのは早く、アパートの2年更新の時期が近づきました。それまでにも市のひきこもりの居場所にはたまに通っていましたが、このままアパートを更新しても、この先もずっと同じことの繰り返しになると思いました。

その先は無理だろうと‥

K2のことは、だいぶ前にテレビで紹介されているのをお父さんが見て、生きづらさを抱えている子がK2にいるらしいんだよと言っていて、私は見ていなかったので検索しました。するとホームページにシドニーやニュージーランドで楽しくやっています、という情報が出ていて、「これはうちとは違うな」と思って除外していました。

しかし、もうアパートの更新もしたくない、その一心でもう色々調べることなく、K2に電話をしてみたところ、事業説明会があることを知り、私と2歳上の姉と2人で行きました。説明会では6カ月の自立のための共同生活プログラムがあること、またそのプログラムが終わっても続いて参加できるプログラムが別にあるので、良いと思いました。6ヶ月なんてあっという間ですし、「自立プログラムが終了しました」と放り出されても、息子はその先は無理だろうと考えていましたから。

その後、本人を連れて一緒にもう一度説明会に参加し、気が変わらないうちにと翌月の入所を決めました。本人は共同生活の申込書の志望動機欄に、「友達を作りたい」と書いていました。アパートの一人暮らしが寂しかったのでしょう。

自分の子どもではなく、他の子どもと関わることが大切

説明会の面談では「お母さん、発達障害のことはご存知ですか」とその時尋ねられました。自分はその時、息子は発達障害とは違うと思っていました。その後息子がK2に入寮して13年、長い関わりの中で、本人が変化したというよりも、私を含む家族の理解が深まったことが大きいと思っています。発達障害については、私は自分の息子と直接話すことよりも、K2に入寮している他のメンバーと話すことで理解が深まりました。

発達障害のことを理解するためには、自分の子どもとではなく、他の子どもと関わることをおすすめしたいと思います。自分の息子のことは、近すぎて冷静になれないものです。他の子との距離感で見ると「こんなことができる、こんなことが言える」と、その子どもの良い面を理解することができます。

支援にハッピーエンドはない

息子が受けた支援には、いろいろなものがありました。共同生活寮は何カ所かを経験しましたし、K2にはさまざまな就労体験の場があるので、いろいろな仕事の経験を積むことができました。外部就労、つまりK2から出て、企業での就労も9年経験しました。
外部就労は最初喜んで「定年までいたい」という気持ちでいたようでした。
すぐ上の職場の先輩の理解がとてもあって、息子の仕事のペースを見て「休憩をした方がいいよ」などアドバイス頂いたりと、よく面倒をみて下さっていたんですが、息子が入社して3~4年で定年になり辞めてしまわれました。その後環境の変化も色々あったのでしょう、「仕事を辞めたい」と言い出しました。それから職場や息子の聞き取りに就労支援のスタッフが対応して下さったり、病院のカウンセリングを受けたりもしました。
また、体が痛いという訴えもあり、本当に体がカチカチになってしまっていて。最終的に顔に出るようなチック症状まで出てしまい。その頃には「辞めるたい」と言い出して1年ぐらい経っていましたが、結局退職しました。辞めると本人も「嘘みたいに痛みがなくなった」と言っていました。金森代表が言われている「支援にハッピーエンドはない」という言葉を痛感しました。

息子は今現在、K2石巻の共同生活寮に住み、石巻市に住民登録もして、就労継続支援B型事業所に週3回で通っています。
横浜にいる時よりも、石巻の土地によく馴染んでいるとスタッフから聞き、場面転換ができたことが本当にありがたいと思っています。
彼は今も石巻で頑張っているようです。ありがとうございました。