2024年6月22日 プレゼンターの坂本牧裕が講演を行いました。
こちらは内容を書き起こしたものになります。

本日プレゼンターを勤めさせていただきます、K2グループのスタッフ、坂本牧裕です。

私が所属するK2グループでは、さまざまな生きづらさを持ち、K2に集まってきた子どもや若者たち一人一人にそれぞれに合ったオーダーメイドの支援をモットーにしています。

一般的な学校教育では、子どもたちを同じレールに乗せることを考えがちですが、K2ではどんなことがひとりひとりにマッチするのかを考え、親御さんたちとも話し合いながら進めていくのがひとつの特徴だと思っています。

K2での僕の役割は今現在、K2グループの中のNPO法人ヒューマンフェローシップという団体の理事長であるのと、キリスト教会の教会牧師もしております。

奥さんと子どもたちが4人いて、いちばん上が小学6年生で、その後は小4、小1、年長さんです。

よろしくお願いします。

令和3年度児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査結果(文科省)

本題に入る前に、日本の現状に関して、まずみなさんと情報を共有しておきたいと思います。まずこのグラフをご覧ください。

日本の不登校児童数は今、右肩上がりで増加しています。

今日参加された方の中には、今お子さんが実際に不登校の方もおられるかと思いますが、ご自分のお子さんだけでなく、クラスに他にも不登校の生徒がいるとちらほら聞いたことはあると思います。このように、皆さんが生活の中で感じる肌感覚と、統計の数字は一致しているのではないかと思います。

次のグラフです。これ15歳以上の義務教育を終えた後39歳までの、いわゆる若年無業者という表現をされる、学校にも属していない、仕事もしていない、トレーニングも受けていない若者の統計です。

2002年~2019年頃まで、概ね80万人前後で推移しています。そして2020年のところだけぽん、と数字が上がっています。これはコロナの影響とさまざまな要因と背景があると思います。

令和4年度の不登校数の統計は約30万人、若年無業者の統計は70万人。このことから、日本には不登校、ひきこもりの状態にある39歳までの子ども・若者たちが、約100万人前後いるということになります。

さらに国の統計を参考にすると、15歳から64歳までのひきこもり状態にある人は、令和5年度で146万人にもなります。39歳以上の方が全体の1/3である46万人はいるだろうということになります。

不登校の状態で支援に繋がらずに何年も何十年も経過してしまうことが、長期間のひきこもりにつながる大きな要因になるのは明らかです。

今日来られている皆さんは、この問題に関心がある、またはお子さん自身がこの状況の中でどうしたらいいのか、という問いを抱えておられているのではないかと思います。

今日は、「不登校はチャンスだ」ということで、3つ話をしたいと思っています。まずひとつは僕自身が元々当事者だったところから、今までどのように歩んできたのかをお話します。

前置きとしてですが、僕自身も元当事者であったところから支援者となり、さまざまな若者と接してきた中で、若者が100人いれば100通りの人生があったと振り返ります。今から話すのは僕自身の個別のライフストーリーなので、それが絶対だとは思わないで頂けたらと思います。

「線路は続くよどこまでも」

小学校は地元の小学校に通っていました。小学校3年か4年ぐらいから、学習塾に通うようになったんです。当時は学校の勉強の補完的な意味合いで、言われるがままにいろんな習い事の1つとして塾に行っていたのですが、その先に受験があることを、高学年になるとなんとなく気づいてくるわけです。小学校の仲間、友達とは違うところに行かなきゃいけないことにある時気づいて。なんで受験なんかしなきゃいけないんだと、薄々感じ始めていました。それが小学校高学年時代でした。

そうであっても、今までしたことのない受験もそれなりに頑張り、ある程度の学校に合格はして、私立の中高一貫校に入りました。

中学校の入学式当日、式典が終わった教室で、先生から「校長室で校長先生が呼んでるから」って呼ばれたんです。

初日から校長室に呼び出し?と思い担任の先生と一緒に行くと、校長先生が直々に「君は今まで類を見ないぐらい、試験の成績が良かったから期待してるよ」と直々に言われたんです。

この学校はなんなんだ?というショックと驚きもあって、変なプレッシャーでした。

そんなことから僕の中学生生活が始まりました。

僕が行っていた学校は男子校で、全学年で80人、40人教室が2クラスしかない中高一貫校でした。

中学校ではそれなりに勉強はしてたんですけれども、初日に校長先生に呼び出されて目立ってしまい、なんだか窮屈な感じがして。周りからも「あいつなんなんだよ、先生に贔屓されて…」みたいな視線を浴びるようになる。

些細なことですが、授業中に消しゴムをクラスメイトにどんどん、どんどん回されていって、なくなってしまうこともあり、教室の中に入っていくっていうのが辛く感じてしまって。

なんで自分ばっかり。でも、そんなことでいちいち親に消しゴム隠されたんだよ、なんて言うのも馬鹿らしいし、先生にわざわざ言うほどでもない。だからこそ、言いづらくて、相談しづらくて。でも教室には行きたくない、いたくない。

ちっちゃなことが日々募り、教室に行くのがだんだん億劫に感じるようになっていった。そんな中1の始まりでした。

そんな中、フルーツ牛乳事件が勃発するんです。

中高一貫校なので、同じ学食を中高生が一緒に使うんですが、当時は学校独特のルールがあって。中学生は牛乳しか頼んじゃダメ、高校に入るとコーヒー牛乳頼んでもいい、高校3年生だけがフルーツ牛乳も頼んでいいみたいな、暗黙のルールがあった。

僕の入った部活は吹奏楽部だったんですけども、ほとんど部員がいなくて。中高合わせて10人ぐらいしかいないような部活だった。中1で新入部員が入ってきたっていうんで、高校の先輩たちがめっちゃ可愛がってくれて。高校3年生の先輩が、コーヒー牛乳じゃなくて、フルーツ牛乳を奢ってくれたんですよ。

先輩たちがよかれと思ってしたことだし、こっちは嬉しいなと思ったんですが、やっぱり中学生の中で「なんであいつ中1のくせにフルーツ牛乳飲んでるんだ」と噂になり、非難の視線をさらに浴び、ますます学校が窮屈になった。

不登校の始まりは5月のゴールデンウィーク明けのことでした。出た宿題はきちんとやって、普通に行く準備はしていた。でも、いざ学校行く段になって教室に入ることを思うと、すごくしんどくなっちゃった。でも行きたくないなんて親に言えないし、どうしたらいいんだろうって。元々色々思い悩む性質なんです。

だから、初めにとった手は「ちょっと今日頭痛い」となるわけです。実際に頭も痛いし、お腹も痛い。初めのうちは親も心配して普通に病院連れていくけど、お医者さんにはもうなんともないですよ、なんかお腹壊したんですかね、ぐらいな感じに言われてしまう。

でも頻繁にはその手を使えない。だから学校にはいつか行かなきゃいけないっていう状況にある。そこで、この「線路は続く事件」が出てくるんです。

僕が通ってた学校は山手線の駅にあったので、山手線に毎朝乗るわけです。

線路は続くっていうのは、山手線に乗ってそのまま延々と山手線を乗り続けるってことです。山手線は終点がないですから。

でもね、延々と乗ってても、たまに山手線の車庫に入る電車もあるから、途中で乗り換えなきゃいけないんですよ。なので朝乗って、途中で1回か2回ぐらい乗り換えることもあったんですけど、山手線を夕方ぐらいまでぐるぐる、ぐるぐる回って。で、飽きたら反対方向に乗り換えてまたぐるぐる。で、夕方帰ってくるっていうようなことを始めました。

そんなこと始めても学校側は休んでるので、すぐに見つかり、家に学校に来てませんよっていう連絡が入って、家族からまた何してんのみたいなことになっていくわけです。でも、またぐるぐるぐるぐる行ったふりをする。

そんな状況でも、行きたくないっていっても学校は行くもんだと、行かされるわけですよ。

固定観念があるわけですよね。中学生には学校しか選択肢がなく、学校に行かないという選択肢はない。今から30年前ですから当時の親も自分自身の感覚も、中学校に行かない選択はなかった。

もちろん社会の中にも他に選択肢があるわけもなく、何言ってんのみたいな状況の中で、「中学行きたくない、学校行きたくない」と訴えても「行きたくなくても行くとこでしょ、何言ってんの」ぐらいの感覚だった。だから、親としても行かせるわけですよ。

はじめは母親が起こしにきていたのが、そのうち父親も出てきて。父親は布団を剥がして、ベッドから引きずり出して、力ずくでとにかく家から出す。中学生ぐらいになると力もあるので、父親とつかみ合いになり、傷つきながら、服ももみくちゃになりながら、追い出されるみたいな感じになって。追い出されてもやっぱり学校には行かないから、結局は外でうろちょろするというようなことが続いていました。

するとある日母親が「学校行かなくていいよ、そこまで嫌だったら行かなくていいよ」って言ってくれたんですよ。「行かなくていいよ」って言ってくれたその瞬間は、もうぱーっと天国みたいな感じですよね。ラッキーって思うわけですよ。

「行かなくていい」ってやっと言ってくれた!と思って。

とにかく笑いの人生が始まると思いきや、そんな単純じゃないですよね。嫌なとこ行かなくていいからラッキーと思えたのは、本当に初めの数日間だけですよ。

嫌なとこ行かなくていいし、ストレスも感じないし。でも数日経ったら、じゃあこの後自分はどうしていくんだっていう、また別のストレスとかプレッシャーというか、別の暗闇の中に自分自身が入っていくような、そういった感覚になっていった。

学校行かなくてもいいけど、じゃあ自分は何して生きていくの?っていうところで訳がわからなくなってしまうんですよ。行かなくていいのはラッキーだけど、じゃあ何すんの?っていうとこに。

親も、僕自身も悩んで。ここに来られている親御さんと同じように、親も「学校行かなくていいよ」って言うのはいいけど、じゃあどうすんの?そこでやっぱり悩むわけなんです。

もう他の選択肢がないんですよ。学校しかないからどうすんの?となる。

だから親も自分も歯車が合わず、イライライライラしてくる。わさわさわさわさしちゃうし、ざわざわざわざわしちゃうんです。

初めの頃は担任の熱血先生がわざわざ車で家まで来て、僕の部屋まで入ってきて布団をはがし、寝巻のまんま無理やり車の中に押し込んで、そのまま学校に向かっていこうとした。でも、こっちも行きたくないもんだから、車が赤信号で止まっている時に、そこからパッと飛び出して、パジャマのまま道路を歩いて家に帰ってきた。今だったら大変な問題になってしまうでしょう。30年前にそんなこともありました。

担任の先生もさすがにその後は来なくなったけれど、クラスメイトに週1回家にプリントを持って来させたりしていた。

それも先生なりに考えてのことだと思いますが、当事者側からしたら、その一つ一つがもうイライラポイントで「なんでわざわざ」ともうムカムカする、イライラが募ってしかたなかった。

で、イライラが募っていくとどうなっていくのかというと、爆発するわけですよ。

誰に当たったらいいのかわからない。でも周りにいる人は誰かと言ったら、身近な人である母もしくは父に対して暴言が出てくる。暴言だけじゃなくて、やっぱり暴力にも繋がる。

手が出ることもあるし、家の中のいろんなものが破壊されていく。中学1年生から3年生まで、ずっとそんな状況の中に埋没していました。

そこら中の壁に穴が開き、窓ガラスがどんどん割れて、襖も障子もボロボロ、ある時なんか家の仏壇に火をつけて、仏壇が焼けて真っ黒になってしまうとこともありました。

自分の中のイライラが抑えられず、どこにぶつけたらいいのかわからない状況の中で、家の中が真っ暗になってしまっている。僕自身も真っ暗、親も真っ暗で、この先どうしたらいいのかわからない。そんな状況の中でも線路は続く。どこまでも、どこまで続くんだろうかっていう状況に追い込まれていくわけなんです。

さらに中学3年生になると高校進学が見えてくる。この後どうしたらいいのかということにも悩みはじめる。中高一貫校だったので、普通に中学生活をしていたら、同級生は普通に高校には進学する。じゃあ自分はどうするんだろうかということを考え、そわそわそわそわしてしまう。

そんな追い込まれた状況で、親にカウンセリングに連れて行ってもらうこともありました。

共感性のある方たちが、なんでも聞いてくれる。

「そうですね、つらいですね」って言ってくれるから初めのうちは面白がって話をする。でも、どこに行っても同じ。つらいですねって言われなくてもつらいのはつらいし、ずっと悩んでいる。

「じゃあ僕の来年どうなるの?」話を聞くには聞いてはくれるけど、その問いには、明確な答えは出ないんですよ。じゃあ、この人と話しても意味ないじゃん。

今度は面白がってとんでもないこと、あることないことを大げさに話してみる。すると食いついてくる人もいる。それも面倒だから、1時間のカウンセリングの間ずっと無言で過ごしたり。箱庭療法もこんなことしたら、驚くだろうなということをわざとやってみたりと、いろんなことをしました。それぐらいしか楽しみがなかった。

そんなだから児童相談所にも連れて行かれた。心理検査を受けても、「この質問にはこう答えたらこんな答えが出るだろう」と先読みして白紙で出したり、絵を描く検査で紙を真っ黒く塗ってみたり。そうすると児相の人は「ああ、心の闇がすごいですね」みたいなことを分かった風に色々言うわけですよね。

そうすると次は病院に連れて行かれる。児童精神科で「じゃあお薬出しましょう」「これは効果がありませんね」と薬をとっかえひっかえ出されることになる。

これが僕の中学校時代。

まさに線路はどこまでもどこまでも続く。ぐるぐるぐるぐる、ぐるぐるしながら解決の糸口がどうしたらいいのかわからない状況に置かれていった。それがずっと。

居場所、同年代の子たちが集まっている場にも連れて行かれました。同じような年代の子がなにかクラフトしたりしている。

はじめの1~2回は自分も参加して作ったけれど、「これ作ったら俺の高校生活どうにかなるの?なんにもならないじゃない。だからなんなの?」「なにしてんだろ、こいつら?」みたいな感じに思っちゃって。

もちろんそれが楽しい人もいるし、人それぞれっていうのはあると思います。でも、少なくとも僕はそう感じていました。

線路が続く。どこまでも、どこまでも行ってもなんなんだ?っていうようなところにいたんです。

「ウキウキ、ドキドキ、ワクワク」

そんな時に児童相談所の方が「こんなのあるけどどう?」って、1993年の神奈川新聞の「コロンブス大航海」の記事のスクラップを見せてくれて。

『参加者募集中。不登校や学校生活に馴染めない子どもたちの自立を助けようと、3年前からヨットによる航海を基本に活動している横浜のグループが、100日間カナダ~アラスカ航海をする。』

これを見た時に、そんなすごい経験ができるチャンスがあるんだって、胸が踊った。

今まで線路がどこまでもどこまでも続いて、どうしたらいいんだろう?という渦の中にいたのに、急にウキウキ、ワクワク、ドキドキするニュースが突然飛び込んできた。

なにこれ。めっちゃ面白そうじゃん!こんな楽しいことをやってるところがあるの!?

不登校じゃなかったら、何十日間も学校を休んで遊びに行くことはできない。俺学校行ってないからこのプログラム行けるじゃん。学校行ってないから楽しめるじゃん!学校行ってなくてよかった!

「不登校ってめっちゃチャンスじゃん」ってその時に初めて思えたんです。

僕が参加したのは、南太平洋のトンガ王国の周辺を40日間クルージングする航海でした。飛行機でニュージーランドに行って、ヨットで海に出る。まさか自分自身の人生の中で、想像もしていない選択肢が舞いこんだ。

中学生の僕は飛行機にも乗ったことがなかったんですよ。30年前に飛行機に乗れるって、やべえ、すげえじゃんって思うようなことだった。

飛行機に乗って外国に行ける。ニュージーランドってどこ?南太平洋、そんなところに行けるの?と本当にウキウキする話でした。

で、その時の僕がこの当時の写真に写っているんですけれども、どれだかわかりますか?

これでもシュッとしてきた時なんです。要は中学1年から3年生までずっと学校行かなくって、食っちゃ寝、食っちゃ寝するでしょ。お菓子もボリボリ食べてコーラも飲んで。

成長期で背も成長するけど、横の方が早くてあっという間に体重計の針が100kgになっちゃって。さすがに自分自身もやばいなと思ってた。

そこに飛行機に乗ってニュージーランドに行ってヨット航海をするチャンスが与えられた。そういう意味でも、不登校は本当にチャンスだと思えました。

その後参加したニュージーランドのK2のプログラムで、同じような境遇の仲間とも知り合い、共同生活に入り同じような仲間たちと一緒に生活をしていくことになるわけです。

K2の活動の核である共同生活では、いろんな課題を抱えている仲間と一緒に寝食を共にする、生活を共にするということを大事にしています。

「3つを変える!」

僕自身もニュージーランドの生活で良かったと思えることは、3つの「変えること」があった。だから自分自身も変われたと思っています。

そのひとつが「生活環境を変える」ということなんです。

不登校やひきこもりが行き詰っている場合、親と子が暮らす生活環境そのものに問題があり、家族だけではもうこれ以上抱えきれない、という状況にあるのだと思います。

そして家庭の問題、自分の子どものことだからこそ、なかなか外に相談できない、第三者に言いづらいということがあるのではないでしょうか。

こうした状況では、家族が本音で語り合うことも難しいし、親の側ももちろん行き詰まってしまう。

だからこそ生活環境をガラッと変えることが効果的です。

当事者の生活リズムはバラバラで、生活を整える必要があると頭では分かっていても、家庭の中にいたらついつい甘えてしまうし、親がいくら言っても変わることはほとんどない。

このような行き詰った時には、すっぱりと生活環境を変えてあげる。それが本当に大事なんです。

僕はヨット大航海に一歩を踏み出し、楽しい経験を積む中で、生活環境がガラッと変わる

共同生活に入ることで、今までとは違った世界に自分の身を置いた。それが大きなことだったと思っています。

二つめには、共同生活をしていると自ずと生活習慣が変化します。他の仲間と一緒に生活するので、自分だけ好き勝手にする感じではなくなっていく。食事もみんなと三食普通に食べるようになるし、いわゆる規則正しい生活になるから、自然に生活リズムが整っていく。するとどうなるか。一番わかりやすいのは、体重が三ケタあった自分の見た目がシュッとしてきた。目に見える形で自分の体型の変化を感じられたことで、ライフスタイルは改善していきました。

その次はどうなったか。ニュージーランドの異国の地で、言葉もわからないのに、いきなり現地の学校に通い始めてしまうんです。

外国で学校に通うのは結構大変なんです。でもそもそも日本で中学校に行ってないからよく分かっていない。だから外国で学校行けるよ、金髪のお姉ちゃんいるよみたいな感じで行ったらいいかなと、それぐらいの感覚で。

だから何も考えずに中学3年生で外国に行き、外国の学校に飛び込んで行けてしまった。そのはじまりは生活習慣の変化でした。

今まではそんなこと全くできない状況だったのに、共同生活にみんなと一緒に飛び込み、その中で生活習慣が変化し、学校に行けるようになった。流れでなんとなく行けたんだと思います。

最後の3つ目、それは人間関係を変えることです。

僕は親との関係、自分と学校の先生や友達との関係が行き詰まっていた。

親との関係の行き詰まりが、兄弟との関係の行き詰まりにもなっていた。関係性の中でギクシャクしてしまい、家族だけでは問題を解決することができない、どうすることもできない状況になってしまったんです。

だからこそ第三者の助けが必要で、どこかにしっかりと繋がるということが大事だった。

当時の僕はK2につながり、ドキドキしながらここから面白いことが始まるんじゃないかって心から思えた。当事者自身がそう思えることはもちろん大事だし、それにもまして、親自身が子どもを託しても大丈夫と思えることも大事です。こうして家の外の支援につながっていくことで、行き詰っていた人間関係が変えられていくんです。

今まではどこに相談しても、そうだよね、そうだよねで終わってしまった。そうではなくて、次の目標、次の着地点をオーダーメイドの支援の中で一緒に考えてくれる、それがK2なんじゃないのかなと私は思っています。

「生活環境を変える」「生活習慣を変える」「人間関係を変える」。

この3つのことを変えて大きな変化を起こす。これがK2の30年間の実践に裏打ちされた考え方と手法です。

だからこそ、この不登校が増加しているという今の時代、不登校は文字通り、チャンスなんだと思われたい。

親と子と支援者が手を握って、関係をしっかり作っていく。そうして初めてK2は子ども自身にワクワクドキドキするようなチャンスを創り出すことができるのだと信じています。

来場の皆さまもいろんな背景があり、来られてると思います。

3つのことを変える。そのために支援者にしっかりつながっておく。

今日がその一歩を踏み出すきっかけになれたらと思います。 当時つながったK2で、僕を受け入れてくれた人。当時も今も、元気でバリバリ現役のK2の代表の金森さんが生意気な僕のことをどういう風に受け入れてくれて、何を言ってくれたのかをお話ししてくれると思います。この後は、金森さんよろしくお願いします!